2012.08.04

「負けました」 3つの礼

 

夏になると音読のレッスンで読んでみる
「忘れ物」 高田敏子 作

そんな折、明治図書出版からの記事を読んで
「わすれもの」を考える時間がありました
ここに内容を抜粋して転載させていただきます
この夏
「考え続ける」
やってみないかな、キミ!


子どもたちの「負けました」という勇気の大切さ
暁星小学校教諭 安次嶺 隆幸


3つの礼


 最近、各地を巡ると「将棋を正課に」という声を多く聞きます。
 将棋には「3つの礼」があります。
 まず対局前の「お願いします」の礼。そして、次に発する言葉は何でしょうか?
 将棋は指し始めてから最初に言う「お願いします」の挨拶から無言の指し手を繋げて行く作業です。たとえて言うなら、相手の人と2人で作る絵=芸術という見方もできます。お互いの思考が交錯しながら終局を迎えます。そしてその終局の合図は敗者が自ら負けを宣言する「負けました」という言葉なのです。
 「負けました」と相手に自分の負けを宣言することで終わる競技はそう多くありません。勝者が雄叫びを上げる競技、スポーツは数多くあります。最近は相撲でもガッツポーズがでるなどその本質が揺れ動いています。将棋は自分で負けを認めて、相手に宣言する勇気が自然に養われます。悔しい気持ちを心の中に押さえ、そこから再出発する感想戦(=対局者同士が検討する)が行われます。これも将棋のもつすばらしさだと思います。今までの思考をお互いに公開して、検討するこの美学こそ、自分だけよければいい…という最近の風潮に、気づかされます。


めんどうくさい作業、子どもたちが真剣に考える姿勢に改めてその教育的意義を再確認させてもらいました。将棋というのは、人と人とが対峙し、盤面をはさんで思考の対話をするゲームです。そもそもそうやって無言で盤に向き合い、じっと考えるという経験をする機会は、現代社会にあってはそう多くはありません。
 むしろ、考え続けることは今では恥ずかしいこととされる風潮すらあるように思います。早く解答を得ることだけに訓練を重ねていく社会。そして、それに秀でた子どもを優秀だとしてきた教育の世界…。現場の教師として日々子どもたちに接していると、子どもたちの言葉の端々に、私たち大人が発している「めんどうくさい」という意識を感じるときがあります。


考える実体験


 しかし、将棋はそうした「めんどうくさい」ことの対極の世界にあります。将棋を指すとき、「読み」という「めんどうくさい」ことをあえてする。将棋を通して「考える」ことを自然に実体験することができるのです。その効用には、目をみはるものがあります。 子どもたちが互いに盤を前にして真剣に考えている姿を親が見る。子どもが考えた末に自分自身の責任で一手を指し、自分だけの力で前に進んでいる姿に「すごい!」と親が気づく。


「負けました」という勇気


 その効果はその後にあったのです…。東日本大会では、1回戦は勝ち、次の対戦では3人とも優勢に進めながら、終盤で6年生3人チームに逆転負けの1-2での惜敗…。あの後の3人の涙は今でも私の脳裏に残っています。
 この「負けました」という勇気こそ、この大会の意義だと確信しています。


日本人の忘れ物


 将棋は負けた後に感想戦が行われます。これは2人で行う反省会です。ここでこの手が敗因だったと検討をするのです。時には周りの観ている人も加わって最善手を模索します。これも将棋のもつ教育的意義と言えるでしょう。感想戦が終わると駒を数えながら駒箱にしまいます。そして「ありがとうございました」の礼。「お願いします」「負けました」「ありがとうございました」の3つの礼こそ今の日本人が以前はあったのに失ってしまった「日本人の忘れ物」かもしれません。
 今その子どもたちは、次に向けて日々の学業、そして将棋の練習に励んでいます。全ての子どもたちがしっかりと「負けました」がいえる子に、そしてそこから「もう一度頑張る勇気」をと願っています。